干支(えと)と言われると、子牛寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支を思い浮かべますよね。暦に十二支だけを用いるのはアジア圏で日本だけです。アジア諸国では、十二支と甲乙丙丁戊己庚申壬癸の十干を組み合わせてできる六十干支になります。甲子園の<甲子>や戊辰戦争の<戊辰>なども暦から付けられたものになります。
太陰暦・太陽暦
インダス文明はイラク地区。日中は暑く移動するのは夜になります。しかし、砂漠は形を変えます。自分がどこにいるのか、どこに向かえばいいのか。それがわかるのは月や星の位置でした。そして、月を見ることで1週間、1ヶ月がわかるようになります。これが太陰暦です。しかし、月の暦だけだと、季節がわかりませんでした。
エジプト文明。ピラミットを作る際に、シフトを組んで作業しました。シフトは日時計を使用したと言われています。また、農作物を作る為、季節がわからないといけなかったのです。これが太陽暦です。
中国の黄河文明は世界四大文明で1番新しく、太陰暦と太陽暦を合わせた<太陰太陽暦>というものになりました。
文明は砂漠の中で大河のあるところから発展しております。人は皆、水を求め、水のあるところに身を寄せました。ところが、大雨が降ると村が流され、立て直さなくてはなりません。そこには上に立つものが必要になってきます。どうやって決めるのか。それは暦が読める人です。何年もの月日を費やし、あるサイクルで川の氾濫を予測することができたのです。
暦の知識・天文学の知識を持ったものが権力者となったのでした。現在では<日食・月食>は普通に知ることができますが、その昔は「王が月を消した」と思われておりました。
人を見るものになっていく
暦の歴史は長い年月をかけて天文学と共に発展していきました。
心を見るものに発展していったのは、およそ春秋戦国時代に入った頃からと言われております。春秋時代から500年という長い戦国時代の中で、人々は「生きること」について考え始め、たくさんの思想が誕生しました。(諸子百家)
やがて秦の始皇帝が天下を統一しました。秦の始皇帝は税金を徴収するために、戸籍表を作り、名前と生年月日を集めました。長い月日をかけて生年月日を集めていくといくと、人物の傾向を読み込んでいくことができたようです。統計学により、成功した人物、もしくは失敗した人物などを知ることができたと言われています。
暦は時間。時間は権力者が支配できたものでした。また、<人物を考察する術>は、永い間中国王朝の中で秘伝のものとして伝わっていきました。しかし、清王朝の崩壊、中国共産党樹立の際に華僑と共にアジア圏にこの学問が流出していきました。日本では高尾義政氏が亡命してきた学僧から伝承され、算命学と名付け学問になりました。
算命学と出羽治療院
御宗家高尾氏より直門下生として学ばれた、清水南穂先生。ご宗家から正式に資格を与えられ、現在の算命学士の最高峰である。その清水先生から直接学ばれた山脇史端先生。山脇先生よりご教授いただいております。算命学を占いのツールではなく、<ビジネスのメゾット>としての活用、また、<よりよい人生を送ってもらいたい>という目的で数理暦学協会を立ち上げられております。算命学を基礎として山脇先生により、東洋哲学、古典を用いられ、さらに現代の日本人に落とし込まれております。
ストレス社会の現代では、心の悩みが体の不調に表れていきます。<干支暦学>を通して、自分の宿命を知り、心を整え、健康に生きていくことをサポートしていきたいと思っております。<日々頑張っている方々に、輝く人生を送ってほしい>という願いを込めて。
出羽治療院